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―過去10年間日本でも労働者の置かれている状況は若者たちを中心に酷くなる一方で、問題は非正規や派遣の労働者だけではなく、「ブラック企業」といわれる企業における正社員の肉体と精神の破壊の問題にまで拡大しています。

 こうしてマルクスが「労働日」章のなかで描いているような世界が現実味を増すにつれ『資本論』が再び読まれるようになってきていますが、社会主義は失敗したし、マルクスの理論はもう時代遅れではないかと感じる人も多いでしょう。

 マルクスの今日的意義というのはどこにあると思いますか?

 

 たしかにマルクスが『資本論』を執筆したのは19世紀で、当時の資本主義は今日のものと外観上大きく異なっています。

 しかし、マルクスが研究したのは、資本主義の内的構造、つまり、第3巻の末尾で述べられているように、資本主義的生産様式の「理念的平均」です。

 この理念的平均には、例えば、相対的剰余価値の生産(生産力の向上による剰余価値率の増大)のような、19世紀にすでに行われていたものの、20世紀に入ってからはじめて全面的に実現されるようになった事柄が含まれています。

 また、マルクスによって分析された金融市場の「架空資本」の意義は、以前にもまして大きなものになっています。その限りで、マルクスの理論は未だに現代的な意義を多くもっています。

 ただし、もちろん忘れてはならないのが、『資本論』の分析はとても抽象度の高い次元で行われているということです。

 言い換えれば、『資本論』から学ぶことができるのは、資本主義の基本構造です。

 21世紀のドイツ、または日本の資本主義を理解するためには、『資本論』を読むだけでは十分ではありません。

 今度は、具体的な次元での分析が必要とされるのです。

 もちろん、そうした具体的分析は『資本論』が与えてくれる洞察を抜きにしては、あまり生産的なものをもたらすことができないでしょう。

 したがって、今日の社会を理解し、批判するためにも、『資本論』の読解は依然として必要です。

 

―そうですね。マルクスの理論は資本主義の本質を示すことで、今日の具体的状況を分析するための理論的基礎を提供してくれると思います。

 例えば、ぼくは日本のようにブラック企業で労働者が使い捨てられてしまう状況で、エスピン=アンデルセンの言う「脱商品化」という概念が、マルクスの物象化論との関連で重要だと考えています。

 アンデルセンとマルクスをつなげて「福祉国家」の社会主義的戦略にとっての積極的側面を強調すると、伝統的マルクス主義者たちから「改良主義」と批判されるでしょう(笑)。

 ただ、マルクスの『資本論』が示しているように、商品生産社会が全面化するにつれて、貨幣の自立化した社会的力が強まり、貨幣を獲得するために労働力を販売しなくてはならない人々の生活は資本の論理によって包摂され、編成されるようになっていきます。

 それに対して「脱商品化」は、住居、医療、教育といった生活に不可欠な財を商品交換の領域から引き上げます。

 貨幣を媒介としない現物給付の対象を増やし安定した生活を実現していくことで物象の力を制限することになるのではないでしょうか。

 たしかに福祉国家には家父長的性格があり、その制度も階級妥協の産物であることは間違いありません。

 21世紀の「新しい福祉国家」の戦略はそうした限界を意識的に克服していく必要があります。

 それでも物象の力が貫徹しない領域を広げていくことが、ラディカルな左派の運動の戦略にとって大きな意味を持っていると言えないでしょうか。

 

 どうだろう。

 ぼくはこのドイツでもしばしば用いられる「脱商品化」という概念はそもそも間違ったものだと考えています。

 例えば、ドイツの社会国家制度にしたがって失業者手当や病気休業保障金が支払われたとしても、そのことは労働力の商品的性格がいまや弱まったということをけっして意味しません。

 もし夜になってレモネード商人が自らの商品であるレモネードを冷蔵庫に入れて店を閉めるならば、レモネードはそのことによって「脱商品化」されたのではなく、将来的な販売のために(したがって商品として)準備された状態に保たれているにすぎません。

 同じことが社会国家についても言えます。

 つまり、失業者手当や病気休業保障金の給付が防いでいるのは、労働力という商品が、失業や病気といったリスクによってダメになってしまうことにすぎないのです。

 ドイツでこうした手当や給付の支払いが行われるための条件をよく考察してみれば明らかなように、その中心的な目的は資本による使用のために労働力を維持することです。

 したがって、失業者が労働市場にとって再び利用可能になり、労働力の販売が行われるように積極的な努力を示す場合にだけ、失業手当が給付されるのであって、もしそうした努力を見せない場合には、制裁処置が待っています。

 しかし1年後には、この失業手当の支払いも終わってしまい、その後に待っているのは社会的な転落です。

 これはもちろん脅迫としての力を持っています。

 社会国家は常に強力な抑圧的要素を持っています。

 例えば、スウェーデンは社会国家の偉大な模範とされていますが、1970年代の前半になるまで社会的落伍者とみなされる人々に対して強制断種を行っていました。

 病気休業保障金もまた、労働力が再び利用可能になる可能性がある限りで支払われるにすぎません。

 そして、年金もまた明らかに規律化の手段です。

 ぼくが仕事を失えば、その間の収入が以前よりも少なくなるか、まったくなくなってしまうというだけでなく、将来の年金までも危険に曝されることになります。

 それによって、賃労働への大きなモチベーションが生み出されるわけです。

 要するに、社会国家は資本主義に極めて適合した目的を持っています。

 もちろん、この目的のために国家がどれだけの費用を出せるか、また社会国家の抑圧的な要素はどの程度の強さであるべきか、といったことが実際には絶えず争われるわけですが。

 ぼくは社会国家に反対しているわけではありません。

 実際、社会国家は労働者の置かれている状況をいくらかはましなものにすることができるでしょう。

 しかし、社会国家は労働力の商品形態を廃棄することによってなにかを改善するわけではなく、むしろ商品形態内部での改善を行うのです。

 そこでは個人はより一層強くこの商品形態にしたがって振る舞うことを求められます。

 したがって、社会国家についての過大評価には用心すべきでしょう。

 社会国家は社会主義への第1歩ではなく、効率的な資本主義の構成要素です。

 景気上の落ち込みにより失業者が生まれたとしても、社会国家によって労働力の供給が保証され、労働者はより一層強く賃労働に縛り付けられるのです。

 

―もちろんそうした福祉国家制度の「規律化」という側面は新しい社会運動によっても批判されてきましたし、福祉国家がそれだけで資本主義を乗り越えることはないでしょう。

 マルクスが『資本論』で展望していた、アソシエートした生産者たちからなる商品や貨幣のない社会というのは、福祉国家の遥か彼方にあるものです。

 

 ええ。

 その限りで、社会国家の擁護は、社会国家の変革と同時に行われなくてはなりません。

 それは労働者(そして失業者)による自己管理を拡大させていくべきです。

 公的所有の擁護にも同じようなことが言えますね。

 私有化、民営化に反対するべきなのは、既存の公的所有を現在の形態において保つためにではなく、公的所有を自己管理可能で、多くの人々の要求に沿った生産を実現するための形態へと変えていくためです。

 

―そうした可能性を内包する公的所有の領域そのものを広げていく実践と、その先へと押し進めていく実践が両方必要ですね。

 近年では西欧諸国においてさえも社会福祉が脅かされつつあるからこそ、市民が必要とするものを現物給付で与え、生活を安定させようとする福祉国家の試みは、十分に評価されるべきだと思います。

 また、個別企業の抜け駆けを許さない産業別の賃金や労働条件に関する協定があったり、経営委員会に労働組合の代表が入ったりしていることも、労働者による生産過程の自己管理にむけた第1歩としてみなされるのではないでしょうか。

 実際、過去10年のあいだにドイツで日本ほどには労働者の状況が悪化していないのにも、そうした労働運動が獲得してきたものの蓄積の違いがありますね。

 さて、最後に『資本論の新しい読み方』を手引きに『資本論』をはじめて読もうとする読者にアドバイスはありますか?

 

 ぼくの入門書は最初の概観を与え、『資本論』を読む際に出くわす諸問題に対して解説したものです。

 しかし、それだけでは『資本論』を読むという作業そのものを代替することはできません。

 最終的には、『資本論』自体に集中して取り組まねばなりません。

 そのときには出来れば1人でなく、グループで定期的に集まって読むといいでしょう。

 また、ぼくがとりわけ丁寧に解説した節、例えば商品と貨幣にかんする節は特に注意深く読む必要があります。

 というのも、ぼくが詳細に扱ったのは、それらの節が非常に多くの内容を含んでいるからだけではなく、必ずしも理解が容易でないからです。

 もしドイツ語ができるならば、Wie das Marxsche Kapital lesen?(『マルクスの「資本論」をどう読むべきか?』)というぼくの2巻組のコメンタールを使って、『資本論』を読むことをおすすめします。

 このコメンタールは、どちらの巻も入門書と同じくらいの長さで、『資本論』第1巻冒頭の5章に注釈がつけてあります。

 ぼくは、5章までのすべての段落に対して詳細な注釈をつけておきました。

 こうしたやり方で最初の5章を読んだあとには、『資本論』の残りの部分はもはや問題なく読めるようになっているでしょう。

 

―丁寧にありがとうございました。今回の翻訳を通じて、多くの人がマルクス『資本論』に興味をもってくれることを訳者の1人としても願っています

 

ミヒャエル・ハインリッヒ インタビュー(3)

聞き手:斎藤幸平

初出 『POSSE』vol.22

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